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別所温泉の国宝、重要文化財

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常楽寺多宝塔

別所温泉は国宝や重要文化財をはじめ数多くの歴史的遺産が残されております。歴史ブームということもあり是非古きを訪ねていただきたいと思います。
北向観音堂
北向観音堂

北向観音堂

 厄除観音として知られる「北向観音堂」は、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁により開創された霊場です。

 安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられます。寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲(=源 義仲、1154~1184年)の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが源頼朝(1147~1199年)の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。

 本堂が北を向いているのは、わが国でもほとんど例がないようです。その由来は、観世音菩薩出現の際、「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものといわれています。常楽寺ホームページより

 尚、北向観音では御護摩や御祈祷を行っております。詳しくはこちらのページをご覧ください。

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安楽寺
安楽寺(曹洞宗)

安楽寺

「建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、禅を学び、道を学ばんことを要す云々」これは大覚禅師語録(建長寺開山蘭渓道隆の遺書)の一節です。これにより安楽寺は鎌倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、信州学海の中心道場であったことがうかがわれます。

 鎌倉北条氏の外護によって栄え、多くの学僧を育てていたこの寺も北条氏滅亡(1333年)後は、寺運も傾いて正確な記録も残りませんが国宝、重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵、信州最古の禅寺のおもかげを残しています。

また安楽寺では坐禅の体験も行っております。坐禅についての詳細はこちらのページをご覧ください。

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八角三重塔(国宝)
八角三重塔(国宝、安楽寺)

八角三重塔(国宝)

 昭和27年3月29日、文化財保護法の規定により国宝に指定されました。立年代は鎌倉時代末期から室町時代初期までのあいだと言われてきましたが、平成16年、安楽寺の依頼を受けた奈良文化財研究所埋蔵文化センター古環境研究室の光谷・大河内両先生の調査の結果、三重塔用材の伐採年代は正應二年(1289年)ということが判明しました。

 これにより少なくとも1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたことが明らかとなり、わが国最古の禅宗様建築であることが証明されました。

初重に裳階(もこし=ひさし又は霧よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部も禅宗様の形式からなり、類例が少ないです。

拝観時間/3〜10月:8時〜17時、11〜2月:8時〜16時

拝観料/300円

2011年11月に行われた「八角三重塔、慶讃・落慶法要」につきましてはこちらのページをご覧ください。

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樵谷惟仙和尚像
樵谷惟仙和尚像(しょうこく・いせんおしょう/重文、安楽寺)

樵谷惟仙和尚像

 惟仙(いせん)は樵谷(しょうこく)と号した禅草で、木曽原氏の出自といわれています。鎌倉時代の中期、宋に渡って修学し寛元4年(1246年、鎌倉時代)鎌倉建長寺開山蘭渓道隆と同船帰朝して後、安楽寺を開きました。

 この像は胎内墨書銘により、惟仙没後数10年経たと思われる鎌倉時代末期の嘉暦4年(1329年、鎌倉時代)に造られました。

作者は大工の兵部という人です。

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幼牛恵仁和尚像(重文)
幼牛恵仁和尚像(ようぎゅう・えにんおしょう/重文、安楽寺)

幼牛恵仁和尚像

 恵仁(えにん)は幼牛(ようぎゅう)と号し、惟仙にしたがって来麻して安楽寺二代となった中国僧です。

この像も胎内墨書銘により、嘉暦4年(1329年、鎌倉時代)に造られました。作者名はありませんが作風が似ていますので、惟仙像と同じ作者とみられ、木像の頂相(ちんそう)彫刻(禅僧の肖像彫刻)としては古い例に属するものです。

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常楽寺
常楽寺(天台宗)

常楽寺

 常楽寺は北向観音の本坊であり、ご本尊は「妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)」。

 常楽寺は北向観音堂が建立された天長二年(825年)、三楽寺の一つとして建立されました。その後、正応五年(1292年)四月、信乃国(信濃国)塩田別所常楽寺で書写されたと記述のある「十不二門文心解)」が金沢文庫に遺されており、また、本堂裏の北向観音の霊像が出現した場所には、弘長二年(1262年)の刻銘のある石造多宝塔(重文)が保存されていて、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた常楽寺の歴史を証する貴重な文化財となっています。常楽寺ホームページより

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半田孝淳(はんだ・こうじゅん)天台座主(てんだいざす)

 前常楽寺住職、半田孝淳氏が平成18年、天台宗第二百五十六世天台座主に上任されました。また、平成21年には上田名誉市民にも選ばれております。

 その半田孝淳座主の略歴と世界平和を願う足跡はこちらのページへ掲載いたしました。

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多宝塔(重文)
石造多宝塔(重文、常楽寺)

多宝塔(重文)

「石造多宝塔(せきぞうたほうとう)」は、北向観世音様が出現した所で、高さ2m85cmの安山岩で出来ており、国の重要文化財に指定されています。

常楽寺ホームページより

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薬師堂
薬師堂

薬師堂

 薬師堂は弘安4年(1281年)清誉玄斉大徳の開基。堂内には本尊の薬師如来像をはじめ十二神将像、歴代住職の位牌、祖師像と上田藩主仙石政俊公の位牌が祀られています。

また、境内に十王尊堂があります。

 境内山腹には天正年中(1573〜91年)に創設と伝える「温泉社」があり5基の石祠の1基に七久里玄斉霊神と刻まれています。

 この薬師堂は古来より大湯の出湯をとりまく地元住民の温泉の安穏と薬効をご利益とするお薬師さんへの信仰のもとに薬師講中が護持してきたものです。

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湯かけ地蔵
湯かけ地蔵

湯かけ地蔵

 上田の在の信仰深い春蔵が佐渡に流刑された日蓮上人を慕って佐渡のとある沼地を通りかかると「春蔵、春蔵」と呼ぶ声が聞こえました。あたりには誰もいません。「泥にまみれて永いこと此処にいる。一度信濃の湯につかりたい。身を清められたらお前の願いを叶えよう」

春蔵は驚いて沼に入り泥の中から一体の地蔵尊を取り出し、急ぎ信濃に帰り別所の湯に入れました。それから春蔵は美しい女人と結ばれ子宝にも恵まれて幸せな日々を送ったといわれています。

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別所神社
別所神社

別所神社

社名は、古くから「熊野社」といわれていました。 社伝によると、紀州(和歌山県)の熊野本宮大社から分祀〔ぶんし〕されたといわれています。 以来ずっと熊野社でしたが、明治11年(1878)に別所神社に改められました。

建物は「一間社隅木入春日造〔いっけんしゃすみきいりかすがづくり〕」といいます。屋根は瓦葺です。 本殿は18世紀の神社本殿として、規模も大きく、建築様式や、建物を飾る彫刻も華〔はな〕やかで、建築物として優れ、当初の形式がよく残され、文化財として保存価値の高いものです。

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三島神社
三島神社(氷沢の風穴)

三島神社

 三島神社本殿後方50mほど上がったところに「風穴」があります。

蚕を飼育するとき蚕種(さんしゅ)を自然のままにしておくと、春先一斉に孵化(ふか)し夏蚕(なつご)秋蚕(あきご)を飼育することができません。

そこで工夫されたことは孵化を抑制するための「風穴」です。

蚕種を低い温度で保存しておいて、夏蚕・秋蚕の掃き立ての必要に応じ蚕種を孵化させるために「風穴」が造られました。

 風穴は縦7.4m、横2.9m、高さ3.6mの石垣を積み上げた竪穴で、石段がついています。

夏、地上の気温が30℃の日に穴の中は5℃、積み石の間から3℃の冷風が吹き出しています。正に天然の冷蔵庫です。

 当時、蚕種業者「種屋」は塩田平に357軒あり、多くの種屋がこの風穴を利用しました。

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